お祭り

例大祭 まくら祭り

5メートルほどもある竹の竿に色とりどりの飾り枕を付けた枕幟(まくらのぼり)を背負い、五社音頭を唄いながら長滝の御旅所まで渡御します。

氏子の日根野・上之郷・長滝の三地区が交代で祭りを担当し【 社名旗・大榊・塩水・比礼旗・太刀・弓矢・猿田彦・太鼓・神輿・一番幟・二番幟・三番幟】が行列を作り町内を練り歩きます。

奈良時代、和泉の国の五之宮だった日根神社は「一社欠ければ祭事行わず」の取り決めのもと、和泉五社と呼ばれる他の四社と共に五社総社に一同に会し、合同で神事を行うことが恒例となっていました。

時を経て戦乱の世になると、日根神社は兵火に焼かれ、天正13年(1585)豊臣秀吉によって神領地が没収となりました。これにより長く続いた五社のお祭りは中止となりましたが、その遺風は各神社で受け継がれ、日根神社ではこのときから船岡山への神輿渡御が始まったとされています。

古くは中世、日根荘(現在の日根野・土丸・大木)を支配していた九条政基が残した「政基公旅引付」にも「文亀二年四月二日、今日大井関祭礼ナリ・・・」(1502年)とあるように、例祭は近年まで旧暦4月2日(新暦5月8日)に行われていましたが、昭和55年から現在の5月5日になりました。

政基公の時代にはまだ「枕幟」はありませんでしたが、江戸時代の初めには「幟」を先頭に船岡山(岡本)まで渡御しており、現在の原形が出来ています。
そしていつのころからか「幟」の竿に美しく飾られた「枕」を付け、音頭をとりながら渡御するという珍しい形になりました。

いつごろから幟に「飾り枕」を付けるようになったのかは定かではありませんが、子宝に恵まれない村の若嫁が子授けを願って奉納した枕を、お祭りの幟にくくりつけて渡御したのがはじまりと言われ、やがて良縁にめぐり合えるよう縁結びを祈って枕を奉納したり、疫病の流行を防ぐために村人が枕を奉納するようになり、これらの祈願枕を付けた幟を担いで御渡りするようになりました。

また「神功皇后が三韓征伐に出兵される際に、米俵を竹にくくりつけてお贈りした。」という伝説があり、枕を竿に付けたのはこの様子を表しているのではないかともいわれています。

幟に付ける枕は、筒状の枕の両側に飾りを付けたもので、その起源にはいろいろな説があります。
「戦の前線へ送る兵糧米を入れ、背負って届けたとされる枕状の袋を模したものである」とか、「日根神社は樫井川を守護する神であるから、井堰の水をせき止める土嚢をかたどったものである」などといわれています。

岸和田の「だんじり祭り」に代表されるように「だんじり」は泉州一帯の秋の風物詩です。昭和の初めまで日根野にも数基あり、「まくら祭」にもだんじりが神輿と一緒に出ていました。

まくら祭は、かつては「けんか祭」としても有名で、まず境内の楼門から降る石段が「喧嘩場」でした。太鼓・賽銭箱・神輿がもみ合い、石段の上から放り投げられることもありました。また船岡山の登り口では馬に酒を呑ませて駆け上がらせたりしました。
この騒ぎを見ようと見物人が集まり、芽が出たばかりの苗代に踏み込むこともしばしばでしたが、当時の人々は「田に神様が入った。今年は豊作だ」と喜んだものです。

今も日根野の各町内の辻には石灯籠が建っていますが、かつては灯籠座が組織され、祭の一月前から毎日夕刻になると各町内の子供たちが六角形の紙で作った灯籠に灯を点して日根神社に奉納しました。
現在でも渡御のときに「セーロージャ、マーロージャ」、「センザイロージャ、マンザイロージャ」と掛け声をかけるのは、「千灯籠じゃ、万灯籠じゃ」が訛ったものです。

今では取り付ける「飾り枕」は25個と決まっていますが、多いときには50~60個にもなり、あまりの重さに途中何度も折れた竿を交換しながら渡御しました。
この「枕幟」は縁起物として、相撲取りや商売で儲けた者、ときには病気の人が快復を祈願して担ぎ手を買って出たこともありました。

日根野・上之郷・長滝の三地区合同で行っていた祭りも、大正15年から三地区の輪番制に変わりました。

そして祭りに奉納される「飾り枕」は、担当地区の娘達が子授けや安産、縁結びの願いを込めて手作りし、祭礼後は家庭のお守りとして作り主に返却されます。
しかし、この祭りに奉納した「枕」を欲しがる人がたいへん多く、子宝に恵まれない村の若嫁が「枕」を盗みに入る事もたびたびありました。

昭和33年から船岡山への渡御は中止され、現在の長滝の御旅所まで往復する巡幸路となりました

現在の「まくら祭」は、かつての荒々しい祭りとは対照的な穏やかな祭りとなり、お祓いを済ませた枕幟は所々で酒肴の接待を受けながら半日がかりでゆっくりと渡御します。


ゆ祭り

日根神社は「大井関大明神」とも称し、かたわらを流れる樫井川の守り神でもあります。古より樫井川から水を得て農耕を営んできた氏子地域の人々にとって、取水源である「大井堰」を護る日根神社はたいへん重要な役割を果たしてきました。

大井堰から境内を流れる「ゆ川」を祀り、水の恵みに感謝し、五穀豊穣と無病息災を祈願する「ゆ祭」では境内の中央に櫓が組まれ、この櫓の周りを囲むようにして氏子地区の婦人方により「五社音頭」が奉納されます。

「ゆ川」とは「井(い)川」が訛ったもので、「ゆ」は灌漑用水を指すのと同時に「斎」(心身を慎み清めること)を意味しています。「五社音頭」の踊り手もこの「ゆ川」で手水を取り、身を清めてから踊りを奉納します。


五社音頭

「ゆ祭」の奉納踊りや、「まくら祭」で渡御の際に唄われる「五社音頭」。これにはもともと正式な名称は無く、「ヤレナイ節」と云われていました。
この唄は江戸時代に伊勢参りの道唄として流行した「伊勢音頭」が元唄となっており、近世以降に祝い唄として広く歌われるようになった「伊勢音頭」が、いつしか祭りの宮入音頭として取り入れられ、やがて日根神社独自の唄として歌われるようになりました。

こうして歌い継がれてきたこの唄は、昭和40年に氏子中から名称が募集され、「和泉五社の一社に数えられ盛大であった時代を懐古し忘れないように」との願いを込めて「五社音頭」と命名されました。
同時に唄に振り付けを施し、昭和40年7月15日に斎行された「ゆ祭」で、最初の「五社音頭踊り」が奉納されました。

また昭和54年には氏子から募集された歌詞が加えられ、共に愛唱されるようになり、氏子の有志らが“音頭取り”を、婦人会が“踊り”を担ってきましたが、「五社音頭」を正しく継承していくために、平成19年に民謡の愛好家らによって「五社音頭保存会」が結成されました。