日根神社のなりたち



 

 

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社伝

神武東征
日本を平定するため日向国(宮崎県)を出発した神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は筑紫国(福岡県)、安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)を経て難波の岬(大阪湾)に着きました。
ここから河内国(大阪府)を通り大和(奈良県)へと入ろうとしましたが、激しい抵抗に会い、進むことが出来ません。

命は「日の神の子である自分が、太陽に向かって戦ったのが良くなかったのだ。日を背にして戦おう。」と一旦退却し、広野に根城を構え、天照大御神(アマテラスオオミカミ)と須佐之男命(スサノオノミコト)を奉って戦勝を祈願しました。
その後、進軍を続けた命は無事に大和を平定し、即位して初代の天皇である神武天皇となりました。

このとき命が戦勝を祈願した地は『日』(天の国)の神である天照大御神と、『根』(黄泉の国)の神である須佐之男命をお祀りした野原であること、或いは『日の御子が根拠地とした野原』であることから『日根野』と呼ばれ、ここに天照大御神と須佐之男命の二柱を『日根大明神』としてお祀りしたのが始まりであると言われています。

後に命の御両親である鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)と玉依毘売命(タマヨリヒメノミコト)をお祀りした社が建てられ、併せて『日根神社』となりました。

その他の伝承

三韓征伐
神功皇后が天神地祇に冥助を祈って『三韓征伐』に出兵したところ、『正覚太子』なる者が現れ、皇后に神通の矢を授け、討伐成功に助力しました。
この太子は『溝口大明神』の化身であり、皇后と共に凱旋したこの神をお祀りしたのが『比売神社』だとされています。
また、このとき上陸した場所は『船岡山』であったと言われ、かつては日根神社の御旅所がありました。

神鳳伝説
白鳳元年(673年)、神鳳が大鳥の郷(現在の堺市)の空に現れ、「我は天照大御神である。この地に五社大明神を祀りなさい」と言いました。
そこで天武天皇は白鳳2年(674年)、大井関山に社殿を造営し『大鳥大社』より御分霊を勧請したのが『日根神社』(大井関大明神)であるとされています。

あるいは仲哀天皇2年(192年)、白翁が大鳥に姿を変え日根野の空を数日にわたり飛び続けました。そして「我は鵜葺草葺不合命である。ここに祠を建てて祀りなさい」と言いました。次いで女神が現れ「我は玉依毘売命である。ここに共に祀りなさい」と言いました。そこで村人が力を合わせて祠を作り、この2神をお祀りしたのが始まりであるとされています。

豪族の祖先
樫井川流域を開発した『日根造』(ヒネノミヤツコ)は新羅からの渡来人の子孫であり、日根神社に祖先の『億斯富使主』(オシフミノオミ)を祀ったとされています。

大井関大明神と溝口大明神



日根野村水利絵図』 宝暦11年(1761)
樫井川から取水した水が日根神社境内の「井川」を通り村中に配水されている様子


日根神社は「大井関大明神」とも称し、摂社の比売神社はかつて日根野村字溝口にあり「溝口大明神」とも称されていました。
これらは鎌倉時代に日根野一帯が九条家の荘園となり開発が進められた頃からの呼称で「大井関大明神」はこの地域の農業にとって最も大切な灌漑の源である樫井川の取水源に祀られ、「溝口大明神」は水利の導水を図る「井川」の「水口」に祀られていました。
やがて樫井川流域の大規模な開発と共に、「大井関大明神」・「溝口大明神」は二神一体となり、総じて「大井関大明神」となりました。

和泉五社


『和泉国五社第五日根大明神社図』 江戸時代後期

かつて神社には社格と言われる格付けがあり、朝廷から派遣された国司は任国に着任すると先ず国内の主要な神社を巡拝する決まりになっていました。
平安時代中期になると参拝する順序が定められ、最初に詣でる神社を『一ノ宮』、以下を順に『二ノ宮』・『三ノ宮』と呼ぶようになりました。

和泉国(現在の堺市以南の大阪南部)は『五機内』(摂津国・河内国・和泉国・山城国・大和国)の一国であり、もとは茅渟(チヌ)と云い河内国に属していましたが霊亀2年(716年)に独立して『和泉国』となりこの時に『和泉五社』が選出されました。

この『和泉五社』は和泉国の主要な5つの神社の総称であり、『大鳥大社』・『泉穴師神社』・『聖神社』・『積川神社』・『日根神社』を指しています。
やがてこの巡拝制度は簡略化され、主要な各神社の御祭神を勧請して一社に合祀し、そこへ参詣することで巡拝に代える『総社』の制度が起こりました。

和泉国の『五社総社』は『泉井上神社』に祀られ、養老4年(720年)には五大社の神輿が一同に会して盛大な祭りが行われました。
以後、毎年8月15日に「一社欠ければ祭事行わず」の取り決めのもと神事を行うことが恒例となりました

聖武天皇は特に五社を崇敬され、天平4年(732年)の大干ばつには五社総社に「雨乞祈願」が命じられました。その効果があって五社と総社に神領6800石が与えられました。

戦国時代に入ると、日根神社は兵火に焼かれ、天正13年(1585年)には豊臣秀吉によって神領地が没収となりました。
これにより長く続いた五社のお祭りは中止となりましたが、その遺風は各神社で受け継がれ、日根神社ではこのときから船岡山への神輿渡御が始まったとされています。

日根神社略年表

創建の起源

紀元前663年(戊午)4月9日
、神武天皇が東征の途次で戦勝を祈願される。
後にこの地を『日根野』と名付け、『日根神社』が祀られる。

仲哀天皇2年(192年)御神託により当地に2神を祀る。

飛鳥時代

白鳳2年(674年)天武天皇が大井関山に社殿を造営される。

奈良時代

霊亀2年(716)『和泉五社』に選ばれる。

養老4年(720年)「五社総社」にて和泉五社合同の祭事が始まる。

延喜5年(905)『式内社』に定められる。

鎌倉時代


日根野が九条家の荘園となり、樫井川流域の開発が進められる。


南北朝時代


地方武士の日根氏も守護方として参戦 合戦の場となる。

正平8年(1353)社殿焼失するも2年後に再興。


戦国時代


天正4年(1576)豊臣秀吉の『根来攻め』により社殿焼失。

天正13年(1585)秀吉により社領没収。
五社合同の祭事が中止となり、船岡山への渡御が始まる。


江戸時代


慶長5年(1600)奉行 吉田半左衛門が石灯篭を寄進。

慶長7年(1602)秀吉の子 秀頼が社殿を再建。

貞享4年(1687)岸和田藩主岡部美濃守が水田一町余を寄進。

天明8年(1778)本殿屋根葺き替え・拝殿の修理。


明治時代


明治40年(1907)『府社』に列する。

明治41年(1908)日根野村の神社を全て合祀。

明治44年(1911)遷宮、本殿屋根葺き替え。


近代(昭和・平成)


昭和36年(1961)遷宮、本殿屋根葺き替え。

昭和47年(1972)本殿と比売神社が大阪府の重要文化財に指定される。

平成14年(2002)遷宮、本殿屋根葺き替え。

平成23年(2011)末社合祀百年祭